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フットボールの学び方

20世紀に入る頃、イタリアの医学出身の教育者マリア・モンテッソーリは自身が提唱する教育学理論の中でこんなことを言っています。「不必要な助けというものは人間が成長していく上で弊害となる」と。助けというものをより具体的に考察する本も出版されています。2009年にフェリサ・チャルコフとクラウディア・カサノバによって出版された書籍「助ける術」では本当の意味で人に良い影響を与える助けというものについて考察しています。この記事を読んでくださっている皆さんの中には育成年代のサッカー選手と関わっている方がいらっしゃると思います。今日は少し立ち止まって考えてみてみましょう。果たして私たち指導者は本当に目の前の選手達を助けることができているのかということを。

不確実性や思考の存在

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今週はどんなトレーニングをしようかと頭を巡らせている時、私達はどこに意識を集中させていますか。各選手の中に眠るポテンシャルを如何に引き出すことができるかについてどれくらい頭を悩ませているでしょう。書籍「助ける術」では良かれと思って実施される助けは時としてその目的とは反対の効果をもたらすと書かれています。助けるはずが人が自然の中で自然に獲得していくはずの学びを干渉することに繋がる。為になると思って疑わなかったその行為が実はその人のイニシアチブを半減させ、知を獲得するキャパシティを奪ってしまっていることがある、と。これらをサッカーに置き換えてみるとどうでしょう。選手達にイニシアチブを与えないトレーニングメニューがあります。同じ動作や同じ状況を繰り返すメニューがあります。トレーニングのキーファクターがあまりにも限定されているメニューがあります。それらのメニューを通じて我々は何を獲得していると言えるでしょう。もしかしたらそこでは自分達が指示した内容を只管機械の様に繰返す選手を大量生産しているのかも知れません。不確実性や思考というものが存在していなければ本当の学びはそこに存在していません。果たして私たちは本当の意味での学びに寄り添うことができているのでしょうか?

魚を与えることと魚の釣り方を教えること

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古代ギリシャの哲人ソクラテスが提唱した問答法「産婆術」はその弟子プラトンによって広められました。産婆術では発問をすることを通じて生徒(ここではサッカー選手に当たる)に自身の中にある知の存在に気づかせます。知識というのは決して外から新しく教えるものではなく既に人の中に存在している。そして教育者(ここではサッカー指導者)はその知識を取り出す作業に寄り添う存在でなければいけないという考え方が基になっています。ですので我々指導者は対話、問題定義、考察が頻繁に発生する環境を作り出す専門家でなければいけないわけです。なぜならそこに初めて「学び」が存在するからです。さて、では皆さんの指導現場に学びは存在していますか?

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皆さんはどのように選手達と相互の関係を作っていますか?指導者だけが話をしているチームを沢山見かけますが皆さんのチームはどうですか。選手たちが自ら考え主張する空間を作り出してあげているでしょうか。時には試合に負けることがあったとしても選手達に間違わせる時間を与えてあげることが必要です。そんな「見守るキャパシティ」を私たちは持ち合わせているでしょうか。また指導者から選手に向けてどんな種類の言葉が発せられているでしょう。答えを直接与えるのかそれとも彼らが自身の行動を考察するような言葉を投げるのか。プライオリティーが選手の学び・選手の成長であるのであればどちらの言葉を選ぶべきでしょうか。「素晴らしく」「正しく」プレーする選手がいたとしても、彼が私達指導者がやるように求めたことだけを実行していたとしたらそれはどうでしょう。そんな彼を目の前にして私達は彼は今何かを学んでいる!と胸を張って言えるでしょうか。魚を与えることと魚の釣り方を教えることには大きな違いがあります。果たして私達はどちらを求め、実際の現場でどのように行動しているのでしょう。

 

Iñigo Lopéz イニゴ・ロペス

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